自動車メーカーとして初めて製造されたのは約90年前にさかのぼる
第二次世界大戦後、全国の街中で数多く走っていた三輪の自動車。2人乗りの小さなサイズから、中大型のトラックまで、さまざまな種類があった。
どうして姿を消してしまったのだろうか?
当時の事情を知るため、いくつかの資料を紐解いてみよう。
まずは、マツダが2020年1月の創業100周年を記念して編纂している100年史(社史)の第一弾である、「マツダ 100エピソード」集から見ていこう。
マツダ(当時・東洋工業)が自動車メーカーとして初めて製造・販売したのが、1931年(昭和6年)発表の三輪トラック「マツダ号・DA型」だ。
「マツダ100エピソード」によると、この当時ですでに日本の街中には三輪自動車が多く走っていて、マツダの競合は15社ほどいたという。そのほとんどが海外製パーツを流用して自動二輪車を改造したものだった。
そこでマツダは純国産にこだわって、貨物輸送の新しい道を開拓したのだ。
時は流れて1950年、登場した「CT型」は業界初の最大積載量1トン越えを実現した。目的は、あくまでも貨物トラックであるため、積載量を増えることが商品性を高める最大の方法だった。
筆者の記憶では、高度成長期初期のマツダといえば「オート三輪(三輪トラック)」というイメージが強かった。
次に、2007年に100周年を迎えた、ダイハツ工業の100年史「道を拓く」を見てみよう。
それによると、ダイハツは第二次世界大戦の終戦後、戦前から行っていた三輪トラック事業を再開した。復興期の自動車産業は貨物トラックが主体で乗用車の比率は低かった。
そのなかで、三輪トラックは事業者のニーズに対応してモデルの多様化が進み、大型化路線が過熱する。そうなると、小型四輪トラックと価格や性能面での差別化が難しくなっていったという。
そこで、発想を大きく転換して、ダイハツは小型三輪トラックを発案した。それが、あの「ミゼット」だ。
試作車のボディ寸法は全長2540mm×全幅1200mm×全高1500mm、エンジンは240㏄・8馬力だった。量産初期型は249㏄、後期型は305㏄となった。初期型のキャッチコピーは裏通りもスイスイ走るイメージ「街のヘリコプター」だった。
昭和30年代中盤になると、ミゼットから軽四輪ピックアップトラックとして登場した「ハイゼット」の需要が伸びていった。
また、海外に目を向けると、いまでもタイのトゥクトゥクなど東南アジアや南アジアで小型タクシーとして三輪自動車は活用されている。
その他、イタリアなど欧州の一部でも小型商用車として三輪自動車が生産されており、EV(電気自動車)仕様も販売されている。
つい最近走ってるの見たなぁ
>>どうして姿を消してしまったのだろうか? 三輪自動車は高速走行時、横転する危険性が四輪よりも高いから姿を消したらしいけど、記事タイトルにも記事中にも理由が書いてないのは何故?
だってよく転んじゃうじゃん?
前一輪だと強い制動が出来ない(前輪ロック=制御不能)、前二輪は構造が貨物用途に不向き。欧州みたいにバブルカーであれば多少は残ったかもしれんが、初期費用の安さメインの三輪貨物は高速大量輸送がウリの四輪貨物に勝てない。おまけに軽トラ出現。だから消えた。
トライクとは違うのか?トライクだったらたまに走ってるの見る
小口の荷物が増えた今こそオート三輪の需要がありそうだけどねー… もう作って無いんだな。
すぐにひっくり返るからなくなったと聞いたが。
日本で消えた主な理由は ①横転しやすい ②4輪車の普及&4輪駆動車の登場 ③積載荷重の増加に対応できなくなった です。(本当)
愛媛のミカン農家では旧規格の軽トラが重宝されるが、それでも入っていけない農道があるのか、数台のオート三輪が現役です。
自動車って言うよりオートバイだからねぇ。
結論は? と思って元記事見に行ったけどここに書いてあるので全部だった。まあ予想できるし、米欄の人たちが教えてくれたけど
Mr.ビーン以外で見た事がない
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